最終の目的
人生の目的は人によってその時々に様々だろう。
私にとってただ一つの最終目的、それは神。
神こそが唯一の実在であり、この世界は神で出来ている。他はすべて幻。
この世界はすべて神、世界は神の愛で満ち満ちている。それが真実。
その真実に辿り着き、実際に体験しなければ意味がない。
それがこの人生の目的、そのために人生のすべてを使おう。
最終的には真に神とひとつになれるように。
神をつかむには、エゴをはなさなければならない。
自己の汚れの浄化しなければならない。汚れた心に神が現れることはできない。
エゴを捨てない限り真に神を悟ることはできない。
神の至福、その大いなる達成のためなら、他の欲望は捨てれるだろう。
人生は短い。いつ終わるかわからない。だから日々目的に向かって前進しよう。
切望せよ
切望せよ。奮闘せよ。
心の本性を悟りたいなら。最高の悟りを得たいのなら。真に神を見神したいなら。
そういう思いを持っていても、すぐにこの世のマーヤーにはまって、幻影に惑わされてしまう。
だから日々修行に打ち込む。切望し続け、求め続ける。そうでなければ手に入れることはできない。
この人生はプライドを満たすためにあるのか、
美味しいものを食べるためににあるのか、
快楽に流れ様々な欲望をかなえるためにあるのか、
他者に不満や怒りをぶつけるためにあるのか、
利得、地位や名誉を得るためにあるのか、そんなわけはない。
神を悟るために真理を悟るためにあるのだ。
ならば、誠実に神のみを求め真理のみを求め続けよ。
そうしてのみ神は姿を現してくださる。
邪心を捨てて純粋に聖なるものを求め続けよ。
この世の無常なのもを求めて何の意味があろうか。
人生を神に捧げ、他者の幸せのために捧げ、修行に捧げる。
なんと幸せな人生であろうか。
自己を打破る
他人には優しく、自分には厳しくあらねばならない。
人にはいつも寛大な心で向き合い、自分がどうであるかは厳しく正しくみなければならない。
放っておくとエゴや甘えが出て、悪き習性によって悪きカルマを生じさせる。同じことを何度も繰り返してしまう。
断ち切らなければならない。私は自己の汚れた心を、弱い心を、怠惰な心を、暗い心を打破りたい。自己を超えて行きたい。そのために向上心を持ちひたすら努力しよう。自己の限界を超えるのだ。
心には、精神には限界はない。
人生は短い。死は必ずやって来る。だから気づいている今、最大限に努力しなければもったいない。
今弱いなら強くなればいい、汚れているなら純粋になればいい、狭い心なら広い心になればいい。
その悪き自分は本来的なものではなく、過去の経験からくつられたものだから。
自己の心は自分で変えることができるのだから。
苦難は神の祝福
苦難は神の祝福である。
人生で起こることはすべて神愛だが、苦しみが大きいことほど大きな愛あり大いなる祝福である。
試練によってその人を大きく成長させようとしている。試練が大きければ大きいほど、大きく成長出来るのだから喜んで苦難にぶち当たればいい。どの道、苦難は避けれないのだから。雄々しく立ち向かえばいい。逃げていては何もえられない。
このように思えるかどうかは、その人の心が聖なるものや神に向かっているか、真理のダルマや悟り向かっているかによる。
我欲に縛られて生きている人にとっては苦難はただ苦しいだけ。
聖なる教えを学び、日々修行して生きていると苦しくても喜び。
苦しみに出会っている多くの人が、苦しみから解放されて幸せになってほしい。
でもそれ以上に、みんながそれぞれの苦しみによって成長してほしい。
そして真の幸福へと向かってほしい。
そのためにも日々の努力を倍化して修行しよう。
すべては与えられている
必要なものはすべていつも神によって与えられている。
必要なものは必ず与えられる。だから心配することはない。心配したり恐れる必要はないし、心配することは悪いことである。
ただ必要なものとはエゴが必要だと思うもの、エゴを満たすものではなく、神が真に私を幸せにするために必要なものをご用意下さるんだ。いまの時点でその神の御心が理解できなくても、エゴが嫌がっても、与えられたもの喜んで感謝して進んでいこう。そのように生きることによってのみ真の幸福へと至る。
いつも神の御手によって導かれているならなんの恐れがあろうか。