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  • 日々の気づき

2026.07.27

奇跡のコース「シナリオはすでに書かれている」

長年「奇跡のコース」を付かず離れずで私なりに学んできましたが、以前は理解が難しかった様々なことがわかるようになってきました。オームチャンティングのおかげでしょうか。

『奇跡のコース』を読んでいると、「シナリオはすでに書かれている」とか「この世界はすでに終わった映画のようなものだ」という言葉に出てきますよね。
正直、最初にこれを聞いたとき、私は頭の中が「???」でいっぱいになりました。
今ではコースだけでなく「シナリオ」だといってる方々も多いですが。
それでは人生、もう全部決まってるってこと? 今こうやって一生懸命悩んだり、どっちにしようか選んだりしていることには何の意味もないの? と、なんだかモヤモヤしますよね。
でも、あるひとつの「例え」を思い浮かべてみたら、すごくすんなりと胸に落ちるのです。
それが「映画館」の例えです。
映画館で上映されている映画って、フィルムそのものはもう完成していて、結末まで全部決まっていますよね。
でも、そのスクリーンの中にいる主人公は、自分が映画の中にいるなんて知りません。だから「どうしよう!」「右に行こうか、左に行こうか」って、今この瞬間を真剣に悩んで、一生懸命に生きています。
一方で、客席に座ってその映画を見ている「本当の自分」は、こう知っているんです。
「ああ、いま主人公はすごく焦っているな。でも大丈夫、この映画の結末はもう平和に終わることが決まっているんだから」って。
コースが「シナリオはすでに書かれている」と言っていたのは、けっして私たちの努力や選択を無意味だと笑うためではなくて、「スクリーンの中にのめり込んで一喜一憂するのをやめて、そろそろ安心できる客席の視点に戻っておいで」という優しい招待状だったんだな、と気づきました。
ストーリーや起きてくる出来事そのものを、私たちが力づくで変える必要はありません。
私たちに残されている唯一の自由は、「その場面をどんな気持ちで見つめるか」ということです。
恐れや焦りを抱えてスクリーンにしがみついて見ることもできれば、「結末はもう大丈夫なんだ」という安心感とともに見守ることもできる。
「あ、また映画の中にのめり込んで、本気で焦っちゃってたな」と気づいたら、ただふっと深呼吸をして、客席のシートに座り直せばいい。
未来を無理に変えようと必死にならなくても、スクリーンを見つめる自分の「心」が安心に包まれれば、映し出される世界そのものが、驚くほど穏やかなものに変わっていくんだと思います。
あくまでも例えですがこんな感じです。これがわかれば真に幸せな自己としてこの世界を生き始めます。
起こる出来事や行動という外側の形が同じでも、内側の質が愛や安らぎであれば毎日幸せだと思いませんか。
  • 日々の気づき

2026.07.25

一歩踏み出したら見えてきた 真に委ねるということ


最近、直感や大いなる導きを感じることがあり、ある新しい行動を一歩踏み出してみました。
自分から動き始めると、心の中がザワザワし始めたのです。「他者はどう思うだろう」という不安や、様々思考で静寂がなくなりました。
でも、これこそが気づきのプロセスなのです。
結局、私は「自我(自力)」で動こうとしていたからこそ、ザワついていたのです。
自我というものは、そもそも何でも恐れるし、うまくやろうとするし、細かいことを気にするし、周りの評価を気にする性質を持っています。動き出したからこそ、その自我の性質がリアルに表に出てきただけだったのです。
でも、本当は違います。
今回、私を動かしてくれたのは、私個人の力ではなく、私の中にある「聖なる力(大いなる導き)」でした。
自我の性質に気を取られているときというのは、その自我を超えたところにある「他力」をすっかり忘れて、自分が主役になって動こうとしてしまっているのだと思います。
私たちの目の前にはいつも、一つの選択しかありません。
「自我(自力)でやるか、自我を超えた他力(神・聖なる力)に委ねてやってもらうか」。
「私がやる」のをやめて、「他力に私を使ってもらう」へと意識をシフトすること。自我が騒いでいることに気づいたら、ただ一呼吸置いて、その大いなる流れを信頼して委ねてみる。
何か新しい一歩を踏み出して心がザワザワしているときは、自分が動こうとするのをやめて、大きな力(他力)に委ねていく大切なタイミングなのだと思います。
すべては神の計らいなのですから何の心配もいらないのです。
  • 日々の気づき

2026.07.18

腹一つ

「腹一つ」という響きが、思考を連れ去っていく
日々のなかで、気づけば頭があれこれと忙しくストーリーを紡いでいることがある。
先のことをコントロールしようとしたり、現れた現実に善悪のラベルを貼ろうとしたり。
そんなとき、ふと、内側から湧き上がる言葉があった。
「腹一つ、神のお示しますまま、腹一つ」
その瞬間、驚くほど静かに、うるさかった思考がパッとどこかへ飛んでいってしまった。
頭(エゴ)のなかで「どうにかしよう」と握りしめていた手が、強制的に開かされたような感覚。
「腹一つ」と意識を肚に落としたとき、そこには損得も、未来への不安も、過去の後悔も存在できない。ただ、圧倒的な「いま」の静寂だけが残る。
私たちがいくら頭で計算したところで、この現れは大いなる全体(神)の流れそのものだ。個人の私がコントロールできることなど、本当は何一つない。
「神のお示しますまま、腹一つ」
それは、自分の小さな計らいをすべて諦め、ただこの身一つで、現れる現実のすべてを丸ごと迎え入れるという降伏(サレンダー)。
「する私」が消え去り、ただ全体としての「在る」に深く根を下ろす。
頭がどれほど騒がしくても、お腹の奥底はいつも知っている。
何も足さず、何も引かず、ただ腹一つでここに在ることの、圧倒的な安心感を。
  • 日々の気づき

2026.07.09

一呼吸の中にある命を見つめる

私たちは毎日、無意識のうちに何度も呼吸を繰り返しています。
この、あまりにも当たり前で普段は意識することすらない「呼吸」にこそ、私たちの命のすべてが息づいています。
お釈迦様は、「アナパーナサティ(出入息念)」と呼ばれる呼吸の瞑想を説かれました。
息を吸うときは「吸っている」とありのままに気づき、吐くときは「吐いている」とただ自覚する、極めてシンプルな実践です。
この呼吸を深く見つめていくと、ある特別な瞬間に気づくことがあります。
それは、「吸う息」と「吐く息」のちょうど間にある、ほんの一瞬の隙間です。
息を吸いきり、それを吐き出す直前の、一瞬の止まった時間。
そこには、完全な静寂があります。
「生涯とは、たった一呼吸の積み重ねにすぎない」とも仰いました。
私たちの命は、過去にあるわけでも、未来にあるわけでもありません。ただ「いま、この一呼吸」の中にだけ、確かに存在しています。
その一呼吸の、さらに「隙間」にある静けさに意識を向けるとき、私たちは思考から解放され、命そのものの源へと立ち返ることができるのです。内なる彼方の発見です。
忙しい日々の中で、ほんの数秒だけでも。
吸う息と吐く息のあいだにある、その静かな「間」を見つめ、ご自身のなかの命の響きに、そっと触れてみませんか。
  • 日々の気づき

2026.07.04

「私が考えている」という勘違い

私たちは日々、頭の中でずっと「おしゃべり」を続けていますよね。
「今から何も考えないぞ!」と思っても、次から次へと勝手に思考が浮かんできませんか? そう、実はその考え、あなたが考えているのではないのです。
マインドのおしゃべりは、過去の経験や潜在意識が自動的に再生しているデータにすぎません。つまり、頭に浮かぶ「考え」はすべて過去の遺物であり、真実ではなく、ただの「個人的な解釈」です。
ここで、とても大切なことに気づいてほしいのです。
「起きた出来事」そのものが、あなたを苦しめているわけではありません。
本当の苦しみは、その出来事に対して、マインドが勝手に貼り付けた「最悪な解釈」から生まれています。
現実はいつもただシンプルに起きているだけ。
「あ、この苦しみは出来事のせいじゃなくて、ただの自動的な解釈なんだ」
そう気づくだけで、マインドの重縛からすっと解放されていきます。現実は、ただ淡々と起きているだけ。そこに良いも悪いもありません。
苦しい映画を観て涙を流すように、私たちはマインドが作り出した「解釈」というストーリーに怯えているだけなのです。
スクリーンに映る映画(解釈)から一歩引いて、ただ静かに起きている現実を眺めてみる。
それだけで、世界は驚くほど優しく、静かなものに変わっていきます。

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