離欲の幸せ
欲望によりエゴの喜びや楽しみを手にする幸せ、これは一時的な幸せであり、環境や条件に依存した不安定なものであり、これに頼るほど、求めるほど、実は苦しいのです。
様々な執着を手放す、離欲の幸せがあります。煩悩を刺激する様々な情報が入ってくる現代人には難しいかもしれませんが、欲から離れるほどに安楽となります。手放せば手放すほど幸せを感じます。
この物質世界で、「これがあれば幸せ」というのは誤った思い込みであり絶対的なものではありません。
実際に物を捨てなくてもいいので、日々の心においてはとらわれず、捨ててみよう。
訓練された心
日々善い心を育む。心を訓練すること、悪い心を減じ善い心を増いていく。
仏教には心の訓練の実践的な教えがあるが、実際エゴに引きずられてなかなか難しい。どうすればよりよく実践できるか日々考えている。
入菩提行論には訓練されていない心は狂象のようだと表現されている。うっかり解き放ってしまうならあらゆるものを踏み潰すだろう。間違った心の衝動を抑えられなかったがために生じる害や苦しみは、象の引き起こす被害よりはるかにひどい。ものを破壊するだけでなく、いつまでも消えない苦しみを他者にも自分にももたらすのです。ですから必ず心を制御せねばなりません。
破壊的な感情や考えに強くとらわれているときは心にはそれしかないと思ってしまいます。自分の心を正しく観察し、自他を害する思いにしっかりと気づく必要があります。
訓練には月日がかかります。悪しき心の及ぼす害をしっかりと考え、悪しき心とたたかう決意をし続けたならば、汚れた心を浄化し、清き心を作り上げることができるはずです。
自分を鼓舞し、修行道をひたすらに進め。
忍耐
いつも他者を思いやる心、大いなる慈愛の心を育むには忍耐の修行が必要。
だから自分を怒らせるような人が現れたならそれはありがたいことでありその人は恩恵者である。これを忘れずに忍耐を育もう。
それによって利己主義を克服し、利他の思いで満たそう。
常に与える
常に与える側の人間としてある。
他者に安らぎをあたえたい。自分の安らぎなどどうでもいい。しかも私には神の安らぎがあるではないか。
すべての他者を心から愛したい。私は愛を求めない。神の愛さえあれば十分。
すべての他者に善きものを与えたい。
そのために日々慈悲を高め、他者の幸せのために修行し、経験をつもう。
与えても喜ばれないかもしれない、適切に与えられないかもしれない、だからもっと他者に利益をもたらすことができるように日々経験をつもう。日々良い心をつくろう。日々徳を積もう。
心からの慈悲によって与えよう。
すべては他者に与えるために、神によって与えられていることを私が忘れませんように。
ギブアンドテイクではなく、ひたすらにギブ!
幸せになるには
すべて存在は幸福を求めて生きています。
真に幸福になるには、心が平安で幸せである必要があります。
ここで言っている幸せは,何かを得て幸せという物質や環境などの条件よる観念的で相対的な一時の幸せではありません。
本質的で絶対的な幸福。そのような幸せを得るには、慈悲の心を育まなければなりません。
自分さえよければいいという心では決して幸せにはなれません。他者の幸福を願い、自分よりも他者の幸福を優先させるように心を変えていくならば、その優しい清らかな心が自己の心をいつも平安にし、いつも他者への思いやりにより笑顔になり、言葉も行いも自然と他者を和ませるでしょう。皆がそのように心がければ、世界はもっと平和になり、人々は幸せになるでしょう。
すべての他者を大切におもうことにより、世界は自分の大事な人で溢れるのです。それはそれは幸せですね。
私たちは自分を大事にする利己的な思いをみんな当たり前に持っています。この当たり前が間違っていると気づき、日々自分よりも他者の利益を思い、自分よりも他者の幸福を願うことを心に馴染ませ、できる限り根付かせておきましょう。
そうすれば、自分が害されたと思うようなことがあっても怒りが出ず、平静な心を保つことが出来ます。
慈悲心、利他心がしっかり育まれ、内なる心に平和が維持されていれば、外界でどのようなことがおきたとしても心が掻き乱されるようなことはなくなるでしょう。
よって日頃から心に思いやり、利他に心を育てていきましょう。大きく育ってしまった自利の思いを引き抜いて。
そのようにすれば幸せになります。カルマが良くなるので、環境や物質面でも幸せになるでしょう。