いと深きヨーガ
私が幼い頃、家に『母と子のヨーガ』という本があり、載っていた白黒写真を見てアーサナをやっていた記憶がある。それが夢なのか本当の記憶かわからないが鮮明だ。なぜかアーユルヴェーダを勉強しヘナハウス沙羅の樹を始めた頃から悟りや解脱といったことに強く惹かれそれが人生の目標になった。それまでは幸せな環境にいながらも世界への嫌悪や虚無感を持って生きてきた。
目標が定まると瞑想や神智学や気功やスピリチュアル、エネルギーワークなど役に立つと感じたものを自分なりに体験してきた。
だがヨーガに関してはヨーガが解脱のためのものだとは知っていながらもあまりやる気にはならなかった。なぜなら過去生においてヨーガの修行をしてきた記憶がおぼろげにあるのに、今生まだ人間として無明をいきているのだから今回は今の時代の新しい方法を試した方がいいだろうと思ったからだ。それでも縁があり十数年前からヨーガもやりはじめた。
昨年から聖なる師の教えによりヨーガ修行の道を本格的に歩み始め、本当のヨーガの深さと素晴らしさが心に染みる日々を送っている。
真のヨーガの道という素晴らしい祝福を手にし、真のヨーガの実践が私を導いてくれていると確信する。全力で到達出来るとこまで行きたい。
ヨーガについて聖師・松川慧照先生が説明している分を以下に引用する。
「ヨーガ」という言葉には、「合一」や「コントロール」的な意味がある。そしてその真の意味は、人の本質である「真我」を悟り、そして宇宙の本質である「神我」を悟ることだ。そしてさらにいえば、この真我と神我が同一であると悟ることだ。
例えば大海の中に、海水の詰まったガラスビンがある。これが今の私たちの状態だ。このビンの中身の海水は周りの海水となんら変わりない。しかしこの透明なビンの壁があるがために、私たちは自己という区別を持ち、このガラスビンこそが「私」であると錯覚している。ヨーガというのはこのガラスビンを叩き割る。そうすると、中の海水は大海と一体化し、大海としての自己と宇宙の本質を悟るのだ。本来ヨーガの究極の目的はそういうことであり、そこにいたるための方法はすべて「ヨーガ」なのだ。 (ヨーガスクールカイラス発行「虹のヨーガ」より)
純粋な信
私たちが失ってしまったもの、神への愛、聖なるものへの信。
これは一番大切なものだ。それに気づけたものは幸せ、神への信愛(バクティ)を深めていけばいい。
常に神に心を合わせ、神に対して信愛を持ち、すべてを神の愛と観て生きる。
そのためにはエゴを放棄し、利他の思いをいつも持ち、自分の中の悪を滅し、善を行い純粋に生きる。
少しづつでもそうやって純粋な生き方ができれば、幸せだ。そしてそれは真の自由と至福へと向かう道である。
その道はいばらの道でも、その最高の道を進めるという喜びと神への信愛があれば喜びの道となる。自分の心次第だ。
世俗の低いものに固定されがちは心を至高なる神へ向ける。そして神はすべての衆生を愛しておられるので、すべての衆生への慈悲、慈愛をもつ。神への愛と衆生への愛、そして自己の放棄、どれも欠けてはならない聖なる生き方、この生き方に純粋な信を持てることは幸せ。
あとは神の導きのままに進んで行こう。
断ち切って 繋ぎとめる
怒りが出た時、不満が出た時、欲望が出た時、執着が出た時・・・
全てすぐに断ち切って、心を聖なるものに結び付ける。愛や慈悲、そして神にしっかりと結びつける。
断ち切るだけでは力が弱い。神に心を結びつけることによって、恩寵によってエゴの低い修正を真に手放すことができる。
私たちの本性は無条件の愛であり、純粋な至福、無限の光である。それは神と一致している。
だから神と一致していない時は本当の自分からズレているわけだ。
だからズレを修正するためにはいつも神だけをを心の中に置き、神だけに意識を合わせるのが最善の方法だと思う。
神というのがしっくりこない方は、真我や光、宇宙の根源、無条件の愛などに心を合わせてもいいのだが、私には神がより身近に感じられる。
エゴが出たとき、嫌悪や否定が出た時、それらをすぐに断ち切る必要がある。断ち切れずにそれらを表現してしまったりすると増々悪しきそれらの習性が強まるだけだ。自分自身を注意深く観察して断ち切るべきものを逃さないように、そしていつも神に自分自身を繋ぎとめるように・・。
悟りへの道は自分の努力と神の恩寵によって進むもの。
いつも神だけに心を繋ぎとめておおけば、神は引っ張ってくださる。
だから、どんな時も喜びと感謝で進もう。
幸せ
人生でやりたいことを見つけた人は幸せだ。
生きる意味を見つけた人は幸せだ。
人生の目的や目標を見つけた人は幸せだ。
人生ですべてをかけてでも為したいことに見つけた人は最高に幸せだ。
すべてをかけても進みたい道に出会えただけでそれはすごいこと、それが大変な道でも出会えただけで幸せなこと、それを思ったら努力も喜び、苦しみも喜び、全力でその道進まなけれもったいない。いつも今の自分の全力で道を進む。全力で頑張ることによって開けないものはない。全力で、全身全霊で生きれることは何と幸せなことか。ヨーガ修行、真理の道に出会えた私は幸せであり、日々の修練は本当にすべてが喜びであるという境地に連れて行ってくれる。私たちの内なる光の本質に到達させてくれる。すべての存在もまた純粋な愛と光であったと教えてくれる。真にその境地を確定できるまで全力で修行しよう。そして他の人の幸せに貢献したい。そのために日々精進、それが幸せ。
心のベクトル
心のベクトルが正しい方向をむいているか、このチェックが必要だ。
心が真理、神、聖なるもの、人々への愛に向いていれば、確実に幸せに向かって行く。
心が自利、利己的な欲求に向いていれば、その欲求はかなったとしても、将来的には苦しみがやってくる。
神に向かって行っているか、神から離れていっているか・・・。
これは自己の本性に向かっているか、自己のの本性から離れていってるかと同じだが、この方向性が一番大切だ。
ベクトルさえ定まったら、熱意と努力で進むだけ。
ただこのベクトルが気が付かない間に我欲に向いてしまっていることがある。世間で生きていると気をつけていないと悪しき方向に向いてしまうのだ。それでは幸せになれないし、人を幸せには出来ない。ここで幸せと言っているの儚いすぐに終わる幸せではなく、永遠の幸せ、至福だ。
心のベクトルがあちこち向かないように、いつも神に固定しよう。
周囲を見ていても、ある程度心のベクトルがいい方向を向いている人は輝いている。
真に輝ける理想へ向けて邁進しよう。