すべては神の愛
唯一の実在である神だけがある。
この世界は神で満ちている。
出会う人すべても神。
これを知っている私はとても幸せ。
知識としての知っているではなく実際にすっとその境地、その知覚で生きれれば至福。
人生の中でのどんな事も神の愛なので喜んで受けとろう。
だからなんの不満もないはず。
その愛に応えられるように全力でがんばろう。
なのに心が暗くなったり、怠惰になったりする。
だからいつも思いだそう。神を、無限の神の愛を、神とともにある喜びを、神へと向かっていける喜びを!
すべてに神をみて、心を常に神への愛で満たそう。
そしてその愛によって誠実に献身して、みんなを幸せにしたいから、
もっと修行して自分を高めよう。
心を感謝で満たす
心を感謝で満たす。いつも、いつも感謝を忘れない。
私は目が見え、耳が聞こえ、五体満足である。これを当たり前だと思ってしまっているが、よく考えたら有難いことだ。
この現代の日本という平和な国にいて、日用品や食べ物にも困らない。
この平和やいま与えられているもの、今日生きていること、すべてが感謝ですね。
今でも貧しい国や紛争のある地域にいたら・・・
今の時代ではなく戦争が繰り返されていた時代や野蛮な国に生まれていたら・・・
昨年コロナの時期に過去生の記憶(?)のようなものを思いだしたことがあった。その場面では、流行り病がでた村を兵士が包囲し、多くの村人を閉じ込め、火をつけていた・・・
こんな心痛む所業を人間は過去にに繰り返してきた。今コロナで苦しんでいる人も多いだろうがまだましに思える。
だから日々すごい感謝なはずです。幸せなはずです。不満をもったりしないはずです。
それをしっかり思いだして幸せに生きよう、心明るく、朗らかに生きよう。
場のエネルギ―
この場所でヘナハウス沙羅の樹がはじまってから早20年。
触れさせて頂くすべての方に最高最善の癒しがもたらされるようにと様々施術をおこなってきた。
気持ちよくリラックスしてもらえたらそれが場のエネルギーとして残り、その堆積によって癒しの場が自然とつくられているので有難いことです。なかには嫌な思いをしたひともいるだろうし、以前は私も“癒し”と言いながらいくらかエゴが入っていた・・・。でもそれに負けないくらい“与える”ことを私なりにやってきた。
今ではこの場所で瞑想やヨーガなどの修行も日々行っているため神聖な場所ともなってきている。
空間に創造主の光のドームを設置したり、神聖幾何学や様々な方法で場を浄化しパワーアップするのも好きで続けているので、いろんな恩恵があるに違いないと思う。それらの恩恵がすべての人にもたらされるようにと祈る。
考えてみるといろいろなものに支えられていることに気づく。
感謝の思いが溢れます。
余談ですが、人はこの世界で他人や社会など周囲の影響を受けて生きている。場のエネルギーもそこそこ受けているので家など神聖な空間を作っておくと、心が乱れたとき、意識やエネルギーが下がっているとき、そこに逃げ込める。普段家族と言い争ったり、低俗なテレビなどをみている場所はそういう波動になってる。だからこの部屋(場所、椅子ひとつでもいい)では絶対怒らない、不満を言わない、ここではいつも愛に満ち、ここは神聖な場所であり、聖なる神殿であるという他人に害されない場所を作っておくのはおすすめです。よかったらそこに遠隔で光を降ろしますのでいつでもおっしゃってください。
この世に光が広がれば幸いです。
四無量心
心がすべて。
だから心の穢れを浄化し、改善する。
私たちのもともとの、透明で純粋で愛に満ちた光輝く心、永遠で無限の至福に満ちた心となるには、
まず日々心を神聖なのもへと変えるべく訓練する必要がある。この生きている一瞬一瞬に自らの心を監視する。
そこで拠り所となるのが四無量心だ。
慈・悲・喜・捨の四つの無量の心・・・
慈とは、他者が幸せになって欲しいと願う心
悲とは、他者が苦しみから解放されてほしいと願う心
喜とは、他者の幸福を心から喜ぶ心
捨とは、自分自身の苦楽等には一切頓着しない心
ここで素晴らしいのは無量というのは限定のない、限りない、無限、永遠というような意味あいをもつので、
これらの心をすべての存在に対していつも限りなく持つということになる。
全ての存在に対していつ何時も、一人ものけ者があってはいけない。
この四無量心をいつも忘れない。
そしてこの四無量心よって日常の様々な行為を行う、実践するのだ。
自分のことは捨てるわけだが、これが出来るようになった時には自分が本当に幸せになっているだろう。
いつか永遠の至福へと至るでしょう。
その日まで精進しましょう。こういった努力は真に価値のあることです!
幸せ
人生で一つだけ決まっていることがある。
それは必ず死ぬということ。
それはいつ来るかわからず、
そして仮に長生きしたとしても、数十年という短い時間しかない。
その残された短い時間を、どのように生きたいのか。
みんなの幸せのために生きたい。
あるいは、ただ純粋な主の道具となりたい。
そう思える人は、幸せな人だ。
そこに答えがある。
ヨーガスクール・カイラス発行『松川慧照エッセイ集』より