平常心
苦境に陥ったとき、
あるいは、重要なことをおこなうために緊張するとき、
「平常心!」とよく言いますが、
そもそもここでの緊張や苦しみは、エゴから来ている。
だからまず平常から、普段から
エゴを超えた、真我に集中することだ。
他者のために生きることだ。
神の道具として生きることだ。
なかなか難しくても、そのようにしようとする努力をするべきだ。
そして苦境に陥ったとき、
あるいは、重要なことをおこなうために緊張するとき、
普段から修習していた
「エゴを超えた、真我に集中すること」
「
苦境に陥ったとき、
あるいは、重要なことをおこなうために緊張するとき、
「平常心!」とよく言いますが、
そもそもここでの緊張や苦しみは、エゴから来ている。
だからまず平常から、普段から
エゴを超えた、真我に集中することだ。
他のために生きることだ。
神の道具として生きることだ。
なかなか難しくても、そのようにしようとする努力をするべきだ。
そして苦境に陥ったとき、
あるいは、重要なことをおこなうために緊張するとき、
普段から修習していた
「エゴを超えた、真我に集中すること」
「他のために生きること」
「神の道具として生きること」
を思い出すのだ。
それにより、君の意識は君の中の芯に返り
喜びを持って、緊張なく、なすべき事をなし、
苦境を乗り越えられるだろう。
ヨーガスクールカイラス発行『松川慧照エッセイ集⑧』より
最終の目的
人生の目的は人によってその時々に様々だろう。
私にとってただ一つの最終目的、それは神。
神こそが唯一の実在であり、この世界は神で出来ている。他はすべて幻。
この世界はすべて神、世界は神の愛で満ち満ちている。それが真実。
その真実に辿り着き、実際に体験しなければ意味がない。
それがこの人生の目的、そのために人生のすべてを使おう。
最終的には真に神とひとつになれるように。
神をつかむには、エゴをはなさなければならない。
自己の汚れの浄化しなければならない。汚れた心に神が現れることはできない。
エゴを捨てない限り真に神を悟ることはできない。
神の至福、その大いなる達成のためなら、他の欲望は捨てれるだろう。
人生は短い。いつ終わるかわからない。だから日々目的に向かって前進しよう。
私心なき行為
私心なき行為(カルマヨーガ)を通して、心は浄化される。そして心が清浄になったとき、その中に神叡智(ジュニャーナ)と、強い信仰心(バクティ)が生じる。
神の叡智は、自己の本質そのものである。しかし覆われているため、それはあらわれない。私心なき行為(カルマヨーガ)の目的は、この無知を除去することである。
最初に、あなたは神の叡智を得なくてはならない。神の叡智を得てから、この多様性の世界に戻って来たとき、人はすべてを以前と同じように見るだろうが、もはやその中の何ものにも愛着を覚えない。
神を悟った後では、世界は蜃気楼のようにしか見えない。その中に人を惹きつけるものは何もない。
スワミ・サーラダーナンダ
ヨーガスクールカイラス発行『松川慧照エッセイ集8』より
ちょっとずつでも
少しずつでも、できることはやるできだ。
「私はだめだ」「どうせ変わらない」「それくらいのことは、やっても仕方ない」というプライドや卑屈さに陥らず、少しずつでも、泥臭くても、かっこ悪くても、できることはやるべきですね。
少しずつでも、自分を変えようと努力する。それは確かに少しの変化しかもたらさないかもしれない。しかし、それが数ヶ月、一年、数年と積み重ねられるなら、それをやらない人とやる人の差は大きくなる。そしてその蓄積は、あるリミットを超えた段階で大変革をもたらす。
だから少しずつでも、できることは努力していこう。
ヨーガスクールカイラス発行 『松川慧照エッセイ集3』より
エゴの放棄と慈悲
修行とは心の訓練だ。心の変革が伴わない修行には意味がない。
心を集中させ、いろいろな方面から心を変えていく。熱意と誠実さが必要だ。
どのように変えていくか、その根本はエゴの放棄とと慈悲だ。
エゴの放棄と慈悲、これだけが真に自分と周りを幸せにする。
エゴが自分を苦しめる。
慈悲が自分を幸せにする。
これはエゴがあると受け入れ難く、
そうは思えない人も多いだろう。
そう思えるけど、実践できない人も多いだろう。
でも実践しなければ、これもまた意味がなく、もったない。
信頼して進むしか道はないのだ。道の途上エゴの破壊によって苦しみがやってきてもひるんではならない。
他者への慈悲をもって、自己の苦しみは喜びとし、他者の苦しみはじこの苦しみとする。
師や神がいつもついていて、導いてくださる。
エゴの導かれるのではなく、聖なる御手に導かれて、強い心で進め。